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第13章 三江の風情(2)

犴の舞

犴の舞は古代の犴から起源する。古代の犴は竜と同じく、長江流域の先住民の原始トーテムである。それゆえ、「中国南方の竜」と呼ばれている。

余姚泗門鎮東蒲村の犴の舞は我が国民間の舞踏の珍品で、秦代以前にすでに出現した。紀元前201年、秦の始皇帝は第五回の南巡りの時、九嶷山を過ぎて、長江に沿って、東方に行って、会稽に着いて、馬渚に至り、「渚山に駐屯し、淵に馬を飲ませる」(「旧経」)当地東夷の民衆は「渚山に犴の舞を出演する」(馬渚鎮文化站の調査資料による)。

犴の舞の形式と流伝は不断の演化、豊富と発展のお陰である。その間、王朝も絶えなく交替し、戦乱も絶えずに発生していたが、越の犴の舞の信仰習俗と犴の舞の形成、発展は終始中断したことがない。

現在舞踏に使われている犴は全長が約15メートルある。頭、体、尾に分けて七節ある。全身は金色の布でしばられ、頭は赤い布で飾られ、犬と狐の形に似るように描かれ、口は上と下の二つの顎に分け、その中に赤い舌が見える。顎の上に大きい鼻と黒い目があり、目玉が大きくて生き生きとしている。頭の左右に角と大きい耳が一つずつある。顎の下は赤いひげでいっぱいある。犴には鱗がない。背中のひげが両辺に分ける。尾が比較的に短く、上と下の二つに分ける。犴は民間の布竜に似ているが、細かく見ればその相違が分かる。

犴の舞の出演に自分の独特な陣立てと動作がある。舞い始まる前、犴の頭が中央にあり、体が周囲に寄り添う。犴の舞の隊列は一枚の「令」字三角形旗を先頭とする。一枚の特大の金色の「犴」字軍旗がぴったり後につく。後は五枚の五色の三角形の旗である。その旗の竿が長い。五枚の旗は上に「金、木、水、火、土」という字が一つずつ刺繍され、「五行」を代表する。最後に犴の舞の隊列が犴の真珠の引率で登場する。

出演の中で、「五行」旗は「令」号旗の指揮に従って梅花粧形を並べ上げる。犴の舞の隊列は犴の真珠を持っている人の引率で出演する。犴の舞の陣立てに拉場、食珠、転身、三跳、進粧、串陣、甩尾と収場等が八つある。

下駄のルーツ

日本?日中友好協会の池上正治氏は江蘇省常熟市を経由した時、そこの商店で和式下駄を売っているのに怪しく思った。実は、和式下駄のルーツは中国にある。それに一番古い下駄は寧波市の慈城鎮に発見された。

寧波人は俗に下駄を木製スリッパと称する。20世紀の60年代前後、木製スリッパは民間でしばらく流行っていた。「木製スリッパ、木製スリッパ、3年間も履ける」という話がある。現在そのような木製スリッパは姿を消したようであるが、日本では千年前に中国から伝わっていった下駄はまだ履いている。そのうえ、盛大な行事に和服に下駄を履くのは日本民族の文化特色になった。

1990 年の春、中国考古学研究所の専門家は日本で講義をする時浙江省の寧波市に五千年以前の下駄が発見されたという情報を公表して、即時センセーションを巻き起こした。中国へそのルーツを探そうと唱えた人もいた。

中国の一番古い下駄は1988年寧波市慈城鎮の慈湖新石器時代遺跡に発掘され、合計二点ある。下駄の長さは21センチ、頭部は幅が約8.4センチ、根部は幅が7.4センチある。その中の一点には五つの穴があり、もう一点には六つの穴がある。穴と穴との間がへこんでいて摩耗を免れる効用がある。この二点の下駄は日本で現在使用されている双帯式下駄と人字帯下駄に相当し、今は寧波服装博物館に展示されている。

『太平御覧』に孔子が下駄を履いて各国を周遊し、蔡国に一枚の下駄を盗まれたという物語がある。『文献通考?物異』に前漢元康の5年(紀元前61年)「武器庫が失火して、孔子の下駄と高祖の剣がなくなった」という記載がある。それに、『漢書?愛盎伝』に呉王が五百人の騎兵で愛盎を追って、愛盎が下駄を履いて一気に70里走ったと記載している。漢代の史游の「急就篇」にもそのような記載がある。唐?顔師古は「下駄は、木材で作り、歯が二つあるから滑りを止めることができる」と、注をつけた。当時下駄がすでに二歯で滑りとめるように改良されたと分かる。北朝「楽府」の詩の中には更に具体的な描写がある。「黄桑拓屐蒲子履,中央有系二頭系」は金色の桑木で作成した下駄に帯があるということを指す。「南史」には驍騎将軍虞玩が一対の下駄を三十年間も履いたが着替えることを惜しむため、皇帝が彼に下駄を賜ったと記載している。

実は、中国は2500年前にすでに下駄に関する記載があった。漢と魏の三国時代に下駄はもう広く伝わっていた。三国時代の花嫁は彩色上絵下駄に五色リポンをつけることを流行とした。湖北鄂岡に発掘された一対の漢代彩色上絵下駄は長さが26.7センチ、寛が9.4センチ、現代中国の広州式の木製スリッパと日本の彩色上絵下駄に似ている。

南朝の謝霊運が発明した「謝公下駄」は「山を登るなら前の歯を取り除き、下りるなら後の歯を取り除く」ことができる。唐代の著名な詩人李白は「脚着謝公屐、身登青雲梯」(足に謝霊運の下駄を履き、青雲に聳える高山を登る)という名句を書いた。李白の「越女詩」に「屐上足如霜、不着鴉頭袜」という句がある。その「鴉頭袜」は浙江省東部女子が履く人字帯下駄と女子用の靴下である。それは唐代に日本に伝わった下駄になったのであろう。

宋代になると、下駄は士大夫たちに好まれる携帯式レジャーの靴になった。蘇東坡は外出の時に雨に降られたことがあり、「被り笠と下駄を借りて帰った」という。陸游の詩に「臥聴深泥浅屐声」の句がある。それに、南宋の著名な画家馬遠画の絵「雪履観梅図」が世に残っている。

しかし、宋代以後、下駄を履くのは士大夫の恥になったようである。それゆえ、下駄は中下階級にしか流行っていなかった。けれども、蒸し暑い福建省と広東省の沿海地域で「貴賎に関わりなく、男女も同じく下駄を履く。女子の下駄に彩色の絵を描き、時に竜の頭を加える。一日中部屋の中にごつごつと歩いている」という。

その「ごつごつ」の言い方は絶妙で、下駄の音と形を生き生きにさせた。

麻雀の由来

博打の一種として、麻雀は中国にであるけでなく、日本、韓国、アメリカにも相当普及されている。しかし、麻雀は一体いつ形成され、誰に創造されたのか。

中国式カルタは長い歴史を持っている。『列子?説符』に「楼上博者、射明(王へんに京)張上」という説がある。明(王へんに京)というのは玉質の中国式カルタである。『史記?范睢蔡沢列伝』に「博者欲大投」と記載して弶いる。それに対して、南朝の裴駟は『集解』に「投、(王へんに京)也」という注をつけた。それに、近年考古学発見した実物から実証して、このような秦漢時代に「投(王へんに京)」に用いたサイコロが十八面体の小球であると分かった。南北朝以降、やっと現在我々が見た六面体になった。唐代に至って、サイコロの博打が風潮になった。言わなくても明らかで、2個のサイコロが組み合わせれば「牌九」になる。例えば、一点に一点を加えて地牌になり、五点に六点を加えて「釜の端」になる。

「牌九」は北宋に出現した。清代の陳元竜の「諸事音考」を引用した「格致鏡原」によると、「宋代の宣和二年、ある大臣が32扇のカルタを進呈した。計二百二十七点で、星の分布によって配列する」という。そのため、「牌九」は最初「宣和カルタ」と称された。現在の麻雀の形式は「牌九」を参考にして造られたものである。

麻雀の基礎的な文様は明代のトランプ「馬吊」からできた。頠炎武の「日知録」に「万歴の末、天下が太平で、士大夫は暇ですることがないから、賭博をする者がいる。天啓に至って、馬吊が流行し始める」と言った。同じ時代の寧波文士李鄴の「馬吊の話」が上述の観点を支持した。それに、注意すべきのは馬吊の色と柄に「万字」、「索子」と「文銭」の三種があり、麻雀の色と柄に似ているが、そのやり方は違いということである。

現在調べられる麻雀に関する早期資料は主に中華民国の徐珂の「清稗類鈔」にある。「麻雀は馬吊の発音の転化したものである。呉人は鳥類を「刁」に読む」。ほかに、麻雀の伝播に関して注意すべき史料はもう一つある。杜亜泉の『博史』は「麻雀は最初福建省と広東省の沿海地区で流行っていて、清代の光緖初年に寧波を経由して天津と上海に伝わった」という。換言すれば、麻雀は清代の末に寧波を経由して全国に普及したという。

寧波が麻雀の形成における役割は伝播することにとどまらなく、創造することである。清代の咸豊前後、寧波に陳政鑰という人がいて、字は魚門で、彼の旧居は城内の蒋祠巷にある。彼は駐寧波イギリス領事館の領事夏復礼と親しくつきあっていた。後で江北区外国人の留居地に引っ越し、イギリスの外交官に麻雀を教えた。このことについて、すでにイギリス人の回想録に記載が見つかった。陳氏の子孫は「麻雀は私の先祖が発明したのである」と直言して、蒋祠巷の住民は依然として「陳魚門殿が麻雀を発明した」ということを知っている。麻雀は寧波の方言である。陳魚門が麻雀のやり方に一対の「雀」を創り出したから、厳格に言うと、中国語の「麻将」は「麻雀」と書くべきである。現在でも、日本人はそれを「麻雀」と書いて、「マージャン」と読む。それに動物の雀は日本語で「スズメ」と読む。そのうえ、日本語の中の麻雀に関する術語は全部寧波方言の発音で読んでいる。陳魚門はまた「杠」、「喫」とサイコロで位置を測る方法を創り出した。要するに、麻雀は寧波の陳魚門が馬吊の色と柄、そして牌九の形式よって新たに創り出した博打で、寧波から各地に伝わっていったのである。その時間はおよそ清代の同治と光緖の年代であろう。

市街巷の名称

寧波は文献の邦であり、多くの地名に濃厚な趣が溢れている。

寧波は唐の長慶元年に城を築き始めた。州長官の韓察が子城を築き、役所を建て、しかしその範囲は非常に小さかった。唐末の景福年間まで、州長官の黄晟は市街と城門に接した大通りの範囲を拡大するため、又外側に城郭を建築し、「羅城」と称した。今の環城馬路は当時羅城の城跡である。

唐の明州が城を築く前、甬にはすでに村を形成した。三江口に臨む甬水村は歴史の長い流れの中で、発展を開拓し、街と巷が多く、日に日に都市化になってきた。清の光緒の『鄞県志』に街と巷の地名が154条も記載してある。民国の『鄞県通志』には464もある。改革開放以来また100数条の地名が新たに増加した。

寧波は建城後、出入りのため、元々10ヵ所の城門があった。元代になって、四ヵ所の城門が閉じられ、たである東渡門、霊橋門、長春門、望京門、永豊門と和義門の六つの城門が留められた。そして、民国まで継続しつつある。1927年、寧波は都市建設に適応するための必要として、城郭を崩し、道路を作り始めた。城郭の跡で自動車の道路を通し、環城馬路に総称したが、一段ごとに六つの城門の名称で名付けた。例えば東渡路、霊橋路、長春路、望京路、永豊路、和義路はここによって付けた。

1925 年前後、寧波はかつて街名委員会を創立したことがあり、市街区域、江東、江北の地名を整理した。まばらな断片化の地名を全て「路、街、巷」の三種類の地名に統一し、できる限り歴史的、記念的、商業的な地名を保留した。大体以下の幾つかの種類に分けられる。

第1種類 歴史の有名人と関係がある。例えば中山路、蒼水街、尚書街、華夏巷など。

第2種類 商業?商店のため名を得た。例えば薬行街、羊行街、大来街、宝興巷など。

第3種類 寧波の城門で名を得た。例えば長春路、和義路、永豊路、望京路など。

第4種類 名字で名を得た。例えば凌家街、陸家巷、陶家巷、楊家巷など。

第5種類 橋で名を得た。例えば双橋街、霊橋路、蓮橋街、大橋街、府橋街など。

第6種類 歴代の役所で名を得た。例えば崔衙街、県学街、郭衙巷、毛衙街など。

第7種類 名所古跡で名を得た。例えば雲石街、天一街、白衣巷、五台巷、白龍巷など。

第8種類 近似音、寓意、詩韻序文のため名を得た。例えば伴吉巷、翠柏路など。

第9種類 忠孝貞節表彰のため名を得た。例えば孝聞街、開明街、握蘭巷、広仁街、迎鳳街など。

地理上の特徴では、寧波は沿海の港町で、また甬江、姚江、奉化江という三本の川が交じった所に位置しており、城内には川が縦横に交錯しており、橋梁が無数に散らばっている。更に、月湖という景勝がある。そのため、江、河、湖、橋で名付けた街や巷はどこにも見られる。例えば咸塘街、(石へんに契京)閘街、西河街、横河街、大橋街、蓮橋街、潜龍巷等々。これらの名称から当時寧波の江南の水郷の姿を想像がつきやすいであろう。

また、寧波の多くの街や巷はその近くにある役所、兵営、学校などに因んで命名された。例えば府橋街、県前街、演武街、左営巷、倉橋街、県学街、呼童街、念書巷など。

寧波には、歴史で有名な人物がよくいた。彼らの事跡が民間で広く伝えられている。彼らの名前、おくり名と事跡で名付けられた街や巷が幾つかある。例えば、抗清英雄の張蒼水の名前で名付けた蒼水街。忠介街の「忠介」は抗清英雄の銭隶楽が殉難になった後のおくり名である。三忠巷の「三忠」は明代の末に抗清で殉難した董志寧馮京第と王翊という三人の志士を指す。賀丞巷は、近くに賀知章の賀丞廟があるため名を得たのである。

数多くの文物古跡も街巷を命名する重要な因みである。天封塔があって、塔前街、塔影巷があり、塔を建てた時両側に砂を積みためた処を大沙泥街、小沙泥街と呼んだ。天一閣があって、天一街、天一巷があった。鼓楼があって、鼓楼前大街(今の鎮明路北段)があった。また、延慶巷、白衣巷、開明街、孝聞街、文昌街、波斯巷などの名はその近くに同じ名のお寺や古跡があるためである。寧波はかつてから商業で世界に知られており、手工業も非常に発達している。例えば、薬行街、戦船街、売魚路、鋳坊巷、鉄錨巷、紡糸巷等は文字通りでそれらの街巷の経済的特色を容易に想像できる。

寧波の街巷の中で、名字で命名したのも多い。例えば穆家巷、荘家巷、蔡家巷、莫家巷、汪弄等々。

改革開放以来、大規模な都市建設と古城改造が進んだため、街や巷の名称にもう一度大きな変化が及ぼされ、幾つかの街巷が消えてなくなった。しかし、同時により多くの新しい街道が現れ、時代の特徴を反映し、例えば甬港路、滄海路、桑田路、興寧路、通途路、世紀大道などである。

寧波の幾つかの街や巷の地名は地方の歴史の研究に非常に良い素材である。例えば、江厦街は五代から両宋へ、明清にかけて、千年余を経て、寧波の対外開放の古代の港で、古代に「甬江碼頭」と称され、俗称は「大道頭」である。『四明談助』には「濱江廟の左、今大通頭と称され、一般に外国の船と商舟が停泊し、全部来遠亭から三江口にかけての一帯にあり、帆の椅子は聳え立て、帆柱の端にそれぞれ風鳥が立たれ、青江交互に、時には夜帆柱の明かりが燃える。閣の広い船の初着や初発に逢う度、隣の舟はそれぞれ鉦を鳴いて送迎する。海産物は全部ここに集まる。」と記載してある。陸士龍が「大海を東に臨み、限りがなく広々とし、停泊した船は長く並び、一挙に千里まで、北は青徐に接し、東は行き来が広く、様々な海産物があり、その名が挙げられないほどある。」と言った。甬江碼頭は対外貿易が非常に賑やかで、百貨の交易の市であった。国内の大船は、北の山東、河北、江蘇まで、南の福建、胶州湾及び広東?広西まで出航していた。外国行きの大船は日本、朝鮮、東南アジア各国に疾駆していた。今、江厦橋の架けた場所は昔の大道頭である。大道頭の東、俗称の半辺街は海鮮の集散地であった。曙になって、新鮮な海産物が載った船はどっと集まって来た。清代の李鄴嗣先生の詩に「ひとしきりの生臭い風が人を吹いて慣れる」の文がある。江廈街は乾隆年間から抗日戦争までの100余年において、銀行が林立して、数十軒並を並んでいた。閉店の際、銀貨のチリンチリンな音が街全体を通した。そのため、「天下をあまねく歩くより、むしろ寧波の江廈に及ばない」という称があった。

また、戦船街があり、清代の袁陶軒先生の『鄮北雑詩』に「軍艦は毎年きまって河辺で修繕、棺用の木材さえどの家が残っているのか。近年樟の木は切り尽くし、客は大船に乗って海に出る。」という。戦船街は宋から清にかけての800 余年の間に、軍艦や商船の造船基地であった。北宋の神宗元豊年間(紀元1108年)に戦船工場より大船を2隻造った。一隻は「霊虚安済致遠」、もう一隻は「霊飛順済」で、神舟と称し、また万斛船と称し、当時では、大容積トン数の船舶と称する資格があった。高句麗に出使して、今日になっても朝鮮半島で大きな影響が残っている。

月湖十洲の一つの柳汀の地名は宋代に洲の周りに柳が植えてあるため、柳汀と名付けられたのである。環水の地で、人通り絶えずの二つの橋~陸殿橋と尚書橋とは通じ合っていた。宋代の陳瓘『柳汀』の詩「密に回ってまちまちに月影を覆って、波に軽く起伏して煙の条を付ける。暑い天気さわやか地に比べて、何へ一度の小橋を離れよう。」という。柳汀は宋代に月湖の中で最も景色のいい洲であった。暗緑色に寄りかかるのは青緑で、柳の枝は揺り動き、冷たい煙に雨がぼつぼつ。橋の上に東屋があり、汀の中に衆楽亭があり、両翼にはそれぞれ橋に通じる長い廊下が 12軒ある。銭公輔の『詠柳汀』詩に「世界の3千景を屋根に葺き、鵬天の9万風を占め、宴豆の四時太鼓をざわめき、両岸の遊人は長虹をまたがる。」という。春秋の遠足に行く者が廻り見尽くせないが、終日にかけて厭わなかった。衆楽亭が一時期大いに流行って、王安石、司馬光などは詩を詠み書き、石を刻んで碑を彫り、清代の乾隆年間の全謝山先生がかつて修葺した。後で、徐時棟先生は「古衆楽亭」の額を書いた。しかし、その後建築した衆楽亭は宋代の規模に及ばない。1954 年に解体した。今の柳汀は車馬が街に満ち、四方八方に通じる要路である。1928年後、汀の西側の聖功寺巷が延びて柳汀街になった。1970 年代後城河の西側にある広大な地域も柳汀と名付け、街の西に柳西新村を開設した。宋代の柳汀の名を勝った。

街巷の名称に対する探索が都市の発展と変化を反映することができる。それには地方の歴史沿革、風土人情と経済活動が記録されている。それは都市の一つの縮図である。源を遡り、その命名の原因を理解し、自分の故郷を一層理解し、郷や国への愛を奮い立たせるのも意義のあることである。

商業の習俗

一、商店の名付け

昔、寧波では商店の命名には名前の吉祥、読み方が良く響くことが非常に重んじられていた。商店が商徳を重視し、信用を愛護することと商売繁盛、人と財と共に繁栄するように願うという経営思想を反映した。

1.多数の店名(屋号)は二つか三つの吉祥な字で構成した。例えば、源康布店、鳳宝銀楼、大有恒百貨店、昇陽泰南貨店などがある。曹厚徳先生が最近収集整理した『招牌起名的吉祥字』によって、店の屋号によく使われている目出度い文字は120個あるそうである。それは「隆昌盛福徳興同裕芳祥吉慶森生甡泰富万長昇和明華康源豊餘全聚金昶元茂飴天宝章合年協陽有春鼎新義耀久安宏瑞開高奎誠成振恒潤広寧任如盈大老永雲霞錦綸得翔順寿光香慎中通利繁兆太達彰乾坤公厚鳳復建享龍来美悦益震存妙」。民国時代に寧波のほとんどの屋号はこれらのめでたい字を組み合わせて名付けたのである。

ある店名は吉祥字の前に店主の名字を付ける場合もある。例えば、方聚元銀楼、董生陽南貨店など。或いは吉祥字の前に「老」の字を付ける場合もある。それは商店の古い歴史や信用を重んずることを示す。例えば、老同源咸貨店、老徳馨香燭店など。また吉祥字の後ろに店主の記号を付ける場合もある。それには大体二種類の情況がある。一つは子孫店で、店名を維持する上に跡継ぎの名前から字を一つ選び取って、記とする。例えば、楼茂記醤園は清の乾隆時代に始業し、楼氏先祖代々伝わってきた産業である。正式な屋号は「楼恒盛茂記醤園」である。二つは屋号借りの店である。例えば、寧波に趙大有菓子屋が何軒もある。最初の一軒は上虞出身の趙氏が作ったのである。その龍鳳金団が有名になった後、商売を奪い取ろうとしたがる人は「趙大有」の屋号を利用して団子の店をも始めた。ところが、全て各自の記号が表示してある。大戴家弄にあるのは徳記、霊橋門のは園記、鼓楼の前にあるのは信記、開明街のは文記、倉橋頭のは富記、西門口のは莫記、中馬路のは祥記で、後塘街のは祥記支店である。

2.また関連の典故や伝説で名付ける屋号もある。例えば、老三進は清の末期に創始され、もとは表に店で奥に工場の専門靴屋であった。「三進」は黄石公が靴で張良を三回も試したという典故から生じたのである。『史記?留侯世家』によって、秦の末期に隠居者の黄石公が張良の忍耐力と根気をテストするために、連続三日間橋に座って、靴を橋の下へ振り捨て、更に張良に拾い上げて履かせるように命じた。最後は『太公兵法』を張良に渡し、秦を消滅するように漢に助ける。老三進はこの靴と関係のある典故を利用し、また虚心に進取、功績と名誉を挙げるという吉祥の意があって、非常に適切であるといえよう。20世紀50年代に至って、同福昌帽扇店と合弁した後、老三進靴帽子商店に改称した。また、甬江状元楼はもとは小さい居酒屋であった。上京して試験に赴く一人の挙人が店の得意な料理の氷糖鼈を食べて、この料理の名前を聞いた。店主が良い意味を求めるために、「この料理は『独占鼇頭』(第一になる)です。」と答えた。この挙人は科挙試験で果たして成績トップになった。故郷に錦を飾って帰る時、再びその店に行って、喜んで筆を執って、「状元楼」の三字を書いた。そのため、この名が浙江省東部に響いてきた。それから上海にも同じ名の料理店を二軒開いた。一軒は甬江状元楼、もう一軒は四明状元楼と命名した。

3.また直接店主の名字で命名したのもある。最も特別なのは缸鴨狗甜食店である。店主の江定法は幼名は阿狗で、字が読めないので、自分の氏名の近似音で一つのカメ、一羽のアヒル、一匹の狗を画いて店名にした。その看板が他と異なって、斬新なイメージがある上に、豚油団子の材料に重んじて、風味が独特であるため、急速に津々浦々に知れ渡っていた。「三更四更の夜中に、缸鴨狗の団子を食べたい。1碗、2碗で凝り、3碗食べたら離れたくない。袋の中の銅貨は足りなくて、衣服を脱いで抵当物になる。」と言う民謡は更に広く伝わってきた。

それ以外に、規模のわりに大きい店には、一種の「青竜の看板」があり、その看板はカウンターの曲がった青龍隅に縦に置かれ、店の入り口に向かって、関連の吉祥な言葉が書いてある。例えば、南貨店(南方地域特産の食品の店)は「遊仙始荑(仙人に泳いで芽の始まり)」、醤園(味噌の店)は「鼎鼎調和(毎食の調和)」、酒店(お酒を売る店)は「温釀深醇(温かく醸造した濃い酒)」、「太白遺風」(李白の遺風)、酒楼(居酒屋とホテル)は「金樽酒満(金の酒樽に酒がいっぱい)」、お茶屋は「盧陸の遺風」、「金甌汎雪(金の酒樽に雪が浮かぶ)」、「玉盞流霞(玉の盃に霞が流れる)」、薬店は「橘井流丹」、「頤寿延春」、布店は「杼軸充盈」、顔料店は「匀碧調朱」、紙店は「名重洛陽」、硯店は「品重端渓」、鏡店は「菱花巧制」、秤店は「心如衡平」、珠宝店は「合浦探奇」、銭荘は「川流不息」、「以義為利」等々。

二、ビジネスの隠語

昔、商売の場内で隠語や業界用語で打ち合わせたり交流したりする方法があった。諺によると「職が異なれば相手のことは全然分からない。」という。隠語や業界用語は業界の人しか知らない。これは商業の機密を守るためである。特に駆け引きをする時はよく一つの字(語)で数字を代表する。例えば、「天、地、光、時、音、律、政、宝、畿、重」この十字はそれぞれ「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」を代表する。天が最大のため、一を代表する。次は地で、二となる。光は日、月、星の三つの光を指すため、三とする。時は春、夏、秋、冬の四時を指すため四を意味する。音は宮、商、角、徴、羽の五つの音階を指すため、五を意味する。律は古代黄鐘、土簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射の六つの楽器を六律となった故、六を意味する。政は日、月、水、火、木、金、土の七政(七曜)を指すゆえ、七を意味する。宝は景天科、蠍子草など八種類の長年生の肉質草木を指し、通称「八宝」なので、八を意味する。畿は秦代以前の行政区域が侯、甸、量、采、衛、蛮、夷、鎮、藩の九畿に分けていたゆえ、九を意味する。重は一の重複数を指し、九足す一は十になる。また、「桃園」を三、「一本の手」を五、「眉」を八とするのもある。じっくりと味わったら、確かに面白い。

三、商店の禁忌

昔、商店は商売の興隆、財源の繁盛を願うため、いつも万事が順調に進むことを望んで、そのためたくさんの禁忌があった。

1.行為の禁忌。店堂は営業の場所なので、あくびをしたり伸びをしたりすることは忌む。両足を敷居の上に立つこと、あるいは両足が敷居の両側に止まること、敷居に座って背中を外に向いて手をドアの枠木に止まることなどは金運を遮るが故、避けるべきである。店堂の地面を掃く時は内から外には避け、外から内に掃くべきである。このように金銀の財宝を掃き入れることができると言われている。外には、布屋に尺を叩くことは忌み、酒屋に壺を揺することは忌み避け、米屋は桶に座ることは忌み、薬店は薬をかぎわけることは忌む。違反したら散財を招くと言われる。財神酒(財神の酒)を飲む時は、魚の頭と尾を食べてはいけない。最初から最後まで、連年蓄えの意味を表すからである。

2.言葉禁忌。商店は良い縁起を願うが故、話す時は忌み避けることを十分に注意している。毎日の営業を終える時、「閉める」と言わず、「打烊」と言う。「蝕」を避け、「舌」は「蝕」と同音で、豚の舌を「賺頭」に改称した。「餓」を忌み、「鵝」は「餓」と同音で、ガチョウの頭を「香炉柄」と呼ぶ。「死」を避け、「魚が死んでいる」を「魚文了」と言い、「人が死んでいる」を「人老了」、「人没了」、「人走了」と言い、「気死了(かっとなる)」を「気煞了」と言う。「完」を避け、「完了」を「好了」と言い換えた。または近似音を利用して良い言葉に転換した。例えば「砕」が忌まれるから、春節の間に万が一手を滑らして湯飲みや茶碗、皿などを壊したら、「歳歳平安」と言うべきである。「砕」は「歳」と発音が同じであるから、災害を吉に変えると言われる。

3.商業の禁忌。昔、商店が最も忌んでいるのは店開けの一番目の商売が失敗することである。特にお正月の五日の開きをする時、一番目の顧客には非常に気を遣い、「発利市(儲かり市)」と呼ぶ。「元宝茶」(杯内に二つのオリーブか金柑がある)を恭しく奉ずるのに至るのもある。その上、割引もしてあげる。一年の初商売がうまく行けば一年中うまく行けると信じていた。お正月の五日は財神の日で、この日に外出する時、僧と尼に出会うことは忌まれる。途中で僧や尼に出会ったら、中に挟んでそっと歩いて通る。これで、金運を持ち入れると謂れ、「財神を包む」と言う。

4.動物の禁忌。昔、カラスは不吉な物と見られた。諺に「カラスが頭の上から鳴いたら、災禍を免れることができぬ。」と言う。鳴かれたら、急いで一口の唾を吐き、「黒い鴉、白い首、二回鳴かれても、大丈夫であるよ。」と呟かなければならない。このように災いを祓うことができる。ネズミは子の神とされる。もし夜が更けて人が寝静まる時にネズミが出したぎぃッとリズムのあった音を耳にしたら、ネズミが銅貨を数えているのであると思われる。その時、鼠の音が停止するまで一万、二万、三万、四万、五万……と呟き続かなければならない。これでネズミに金銭を盗み出されることはできないと言われている。

時代の進歩と科学の発展につれて、昔からの寧波の商業習俗のほとんどが消えてしまうか、或いは新たな意味を与えて伝承されている。

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