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第8章 寧波ビジネスグループ

歴史の源

寧波商事は紀元前まで遡ることができる。唐と宋の時代には、寧波では大きな商船が行き来し、商品が豊かで溢れていた。清の時代に入ると、寧波は「品物が全て揃い、店舗が林立している」というような繁栄ぶりを呈していた。

寧波ビジネスグループ(寧波邦と略称)は清の時代の寧波府管轄の6県の商人グループである。親類や同郷人で助け合いながら長年にわたって、他の都市で商業を営む寧波人が血縁と地縁の絆が強いビジネスグループが形成された。寧波ビジネスグループは明と清の時代からアヘン戦争を経て、19世紀の中末期から20世紀の初めにかけて、「寧波邦」は経済力が強く、人材が多く、急速に発展してきた。「寧波邦」は伝統の産業グループから脱出し、地域性の強い経済人の集団になった。「寧波邦」は上海を活動拠地として、北京、天津、漢口にも大きな影響を及ぼし、全国に広がった。

北京での同郷人であろう、他の各地での同郷人であろう、具体的な状況がどうなるかは重要ではなく、重要なのは、その頃、寧波商人の数が多くて集会が必要となったことが言うまでもなく、寧波ビジネスグループが一つの無形的本質的な「幇」行為として、「商儒一体化」というアイデンティティを持つグループに変わった。その心底にはまた一つの強い心の絆が成され、互いに認め合う精神力になった。「同郷」という言葉には、まさに自分と同じ「同い人々」と見なし、同郷人会がこういう心の契約を強くし、そしてそれを組織化したわけである。

王安石が創始した「農家の子は皆学習し、士儒の子は皆麻を織る」というような社会的雰囲気、それに応じて、文も礼も重んじて、信も義も尊重する地方文化精神は、もう寧波の代々の理想的な精神支柱になった。この後、寧波から全国まで活躍した人々はほぼ二種類に分けられ、それは商人と学者である。

寧波天一閣収蔵文献の中に、500種類以上の寧波人や寧波地方に関わる族譜があり、これらの族譜に記載している伝記の中で、よくこのような資料が見られる。ある家族のある人が幼い頃から読書が好きで、社会動乱のため、家が落ちぶれたため商売しか従事できなかった。それから彼がビジネスに成功した後、またお金を寄付して、学校を設立、運営したり、慈善事業をしたりして、あるいは彼の後代に科挙や読書を引き続くように求める。たとえば買弁(コンプラドール)である楊坊の族譜によると、もともとは読書人の家柄ながら、その後、落ちぶれて、読書をあきらめざるをえなく、商業を営むようになったという。李氏は寧波の名門名族で、彼の一族の中に、多くの学者がいて、近代になると、上記のように、家族が落ちぶれ、その後、商売に従事し始めた。したがって、寧波の近代商人の大きな特徴は、幼い頃から読書して、出世した人もいれば、商業を営んで、みごとに成功した後、更に社会の教育事業に出資し援助して、そして、彼らの後代を引き続き読書させる人もいる。

更におもしろいのは、寧波人はこの二本の歩み道を巧みに結び付けた。寧波の学生たちが最初からも「転じて商売に従事する」という心構えを持っている。官吏になる道はリスクが続出するので、それに読書の道は、投資が多くて、成功率がきわめて低いから、そこで読書の啓蒙時期から、寧波の家長達は学生に、まず八股文に関する論文を掌握させることではなく、三つの実用的な技能を掌握させる。それは書道、書簡と算盤である。彼らは学生にとってすべきことは、字をうまく書き、算盤を正確に使用すると思っている。このように、結局的にたとえ官にならなくても、優秀たるビジネスマンになる。このようにして、寧波商人の予備力という文化育成構造が形成された。

更に、寧波は、中国で水運と物流に恵まれている。中国に長い海岸線があり、南北の船舶は寧波で行きかい、売買し、回転し、集散している。有名な港町として、寧波はまた一つの有利なところがある。それは、京杭(北京~杭州)大運河に通じることである。よく知られているように、この河は杭州まで通っている。それに、杭州から寧波までへはまた1本の杭甬(杭州~寧波)運河があり、それでここの物資は上海から寧波まで、また寧波から運河に沿って杭州まで運送され、更に杭州から京杭大運河に遡って、各水系を通してまた四方八方の中原地区まで、さらに北方の地区までと繋がっている。

寧波のビジネスマンは同郷の絆を重んじ、同郷人が互いに助け合う観念がとても強く、困難を共に切り抜けることができ、共に経営のリスクを防ぎ止めることもできる。

寧波は「知識階級商人の揺り籠」という美称が昔からあり、商業貿易の伝統が悠久である。知識階級商人の文化から育成された寧波の実業家は、生まれにして商売が上手である。アヘン戦争の後、資本主義の国々の侵入に従って、商人はみんな経済の比較的に発達している都市に殺到し、商業を営んで、それからビジネスグループが形成された。当時比較的に有名なビジネスグループには、「広州グループ」、「安徽グループ」、「福建グループ」などがあった。その中に、徐々に落ちぶれ、姿をひそめたグループもあったが、「寧波邦」は長時間にわたり、衰えなくて、継続的に、強く発展して、特に香港、マカオ、台湾にある「寧波邦」は、もっとも名を馳せる。

「寧波邦」は中国で最初の機械圧延工場、搾油工場、マッチ工場、機械製造工場と銀行を創設し、我が国の近代経済の発展に大きな貢献をした。香港の富裕層のトップテンの中に、「寧波邦」の三名がその位置を占める。鎮海人の包玉剛は「船王」と呼ばれ、世界で一番数多くの船舶を持ち、容積トン数の最高を持っていた。これは寧波の独特の存在している経済の資源である。金があれば寄付し、力があれば力を尽くす。寧波大学は「寧波邦」の貢献の一つである。

知識階級商人の文化の影響により育成された寧波の企業家は、生まれつきにして商売をする。寧波は歴史文化都市であるがゆえに、寧波人、寧波の企業家も自分の言語と性格を持ち、比較的に控え目で、実務に励んで、着実で几帳面で、言いふらすことが下手で、没頭して励んで、学習に優れている。

「四明山は八百里も広く、品物は東南一豊富」。当時孫文が寧波を訪問したとき、かつて「寧波はこのような土地を持ち、相当たる財力があり、かりに速やかに困難な局面を対処し、うまく経営すれば、中国で第二の上海で、中国人の上海になる。」と演説をした。これはどんな目と気迫であろうか。寧波の雄大な青写真を煌びやかで美しくて描いた。

昔から、寧波は繁栄している対外貿易の都市である。19世紀60年代まで、寧波民営金庫、南北店舗、魚市場は市のどこまでも至り、世に「天下にあまねく歩いて、むしろ寧波江廈に及ばない」と言われている。寧波人が商業を営む足跡は一面の天下に至り、「寧波なしには、市場になるまい」ということは広く知られている。

「寧波邦」は明の時代に形成して、五港が通商後栄えて、辛亥革命の時期に真っ盛りな時代を迎えた。近代の中国の商工業の風雨のなかで、「寧波邦」は盛んな風景の1筆を描いた。1916年孫文はかつて「寧波邦」の企業家に高い評価をした。それは、「凡そわが国の各埠頭に、みんな甬人の事業があり、ヨーロッパの各国においても、また甬商の足跡が多く残っていて、その影響と能力の大きさから見ると、強くて一番と称される」という評もあった。孫文の言うように、「寧波邦」は寧波の発展に対してきわめて重要な働きを果たした。

l984年8月1日、北戴河にて、世紀偉人の鄧小平は「全世界の寧波邦を動員させ寧波を建設しよう。」という寧波人を今まで感動させることを話した。口ぶりの至る所、世界各地で生活している「寧波邦」の心に響く言葉が甬江両岸の畔に飛んでいた。

時が移り変わって、故郷の人情風土が変わっていない。前世代の「寧波邦」の後継ぎをしようとした若い世代の「寧波邦」は故郷に貢献している。1984~2009 年、香港、マカオ、日本、シンガポール、マレーシア、米国、イギリス、ドイツ、オーストラリアなどの67の国家と地域で30数万の「寧波邦」が活躍している。若い世代が引き続き故郷の公益、教育、医療などの事業に気前よく支援しているし、経済建設に力を尽くしている。概算統計によると、1984~2009年、海外「寧波邦」が故郷に13億元の人民元を寄付し、その他の省市に各類の公益事業を支援し、「寧波邦」が全国で寄付総額が78億元に上る。

ここで上海埠頭が開放されて以来、最大の移住者グループになったであるけではなく、上海の発展の中で最も重要なビジネスグループにもなった。上海の金融、商業、水上運輸、工業などに対して全局面を左右する働きを発揮していた。たとえば、「上海銭業リーダー」と呼ばれている秦潤卿は、上海銭業の同業組合を5年間もリードした。1987年、葉澄衷、厳信厚、朱葆三の三人より創立された中国通商銀行は中国人自ら創立した最初の銀行であった。その後、虞洽卿などは四明银行を創立して、朱葆三、林蓮孫などは中華銀行を創立して、寧波人が創立し、経営していた銀行は27軒の数にも達した。1905年、朱葆三、厳信厚などはまた中国の第1陣の保険会社の「華興保険会社」を創立した。1920年、虞洽卿、盛丕華などは華人が開いた最初の証券取引所である「上海証券物品交易所」を創立した。1921 年朱葆三、厳信厚などは中国で最初の信托会社である「中易信托公司」を創立した。

金融業の以外、水上運輸、金属、新薬、顔料などの業界もほぼ寧波人から制御されて、例えば、「寧波ビジネスグループ」の代表人物の虞洽卿は、東北?西北?華北の埠頭会社、寧紹汽船会社などを創立して、抗日戦争の前期まで航業グループはすでに全国で規模の最大たる民営輪運会社に発展した。航路は国内の沿海を網羅するだけではなく、長江の各岸、北はウラジオストックまでに到達し、東は日本に到達し、南はシンガポール、ヤンゴンなどの遠洋航路に至った。

もちろん、「寧波邦」は上海だけでなく、全国及び世界各地ですべて光り輝かしい業績を持っている。たとえば、世界で有名な北京同仁堂は寧波人より創立された。特に中国の「東方真珠」とする香港では、20世紀40年代の後期から「寧波邦」の主要な活動基地となり、安子介から提出された経済発展の理論から、董浩雲、包玉剛が創立した「海上王国」まで、邵逸夫が「映画とテレビの巨頭」から、曹光彪、陳廷華が「羊毛紡績王」、「綿糸王」まで、同様に「寧波邦」の光り輝きがあふれて流れている。

人材を育てるのに百年、落ち葉は根に帰す。改革開放の後、香港や台湾に滞在している「寧波邦」の有名な実業家の包玉剛、邵逸夫、応昌期、王寛誠、李達三、聞儒根、王剣偉、顧国華、趙安中、李恵利、李坤、張敏鈺、朱繍山、王雄夫および海外に居留する応行久、張済民、魏重慶、董鼎山、孫忠利、王家福、周祥赓、陳名毫、水銘漳など、彼らは故郷に貢献を与え、幸福をもたらして、次から次へと故郷へ帰り、寄付し、資金を導入して、その勲功が目覚ましい。たとえば、包玉剛などは寄付金を出して、寧波大学を創立し、邵逸夫は数年来、内陸の教育事業に寄付した金額が累計で数えると、もう26億香港ドルを越え、応昌期は故郷へ帰り、近代的な磁器業に投資して、中城小学校や慈湖中学を建設した。このようなことは数えられないほど多かった。特に20世紀70年代の末から80年代まで、鄧小平が何度も包玉剛などの「寧波邦」の代表を会見したことは、「我が国の対外開放の重要な沿海港町」、「財政上計画独立市」など将来の寧波を目指して発展していくことに堅固な基礎を築いた。

「寧波邦」と中国一

960万平方キロメートルの大地では、かつて徽州、山東、福建、山西でそれぞれの商業派閥があり、数百年を経ち、栄え続いたが、最後は全部衰えてしまった。が、どうして、寧波のビジネスグループは中国経済の舞台の上で、まである引き続き活躍できるのであろうか。

その主な原因の一つは、時代とともに進み、絶えずに新機軸を打ち出して、自分を永遠に不敗の地に立たせることである。周知のように、今まだ流行しているいくつの職業はほとんど寧波出身の人が創立したものである。寧波の商人は自分が立身出世の過程の中で、多くの「中国一」を作り出した。

1897 年、中国で最初の華人銀行~中国通商銀行を創設した。これは、中国伝統的な金融業が近代への道を踏み出して、大きい影響を与えた証である。

また、都市をシンボルとする株式制の商業銀行を独り立ちで創設したのは、四明商業貯蓄銀行で、1908 に創立された時、理事会、社長を担当している創業者は全部寧波出身の人であった。

初期の寧波商人が私営の金融機関へ転じ、発展するように、上海にいる寧波の商人はすでに資産運営から生み出した、巨大な動力を感じて、彼らは商業の領域から大きく資産運営の領域に転向した。これは彼らの経営の理念をすでに大幅に昇格したことを前もって示されている。

第一次世界大戦が爆発した後、欧米諸国が中国での勢力は一時に手を抜いた。寧波の商人はただちにこの機会をしっかりつかんで、一年以内に上海煤業銀行、民新銀行、日夜銀行、中華勧業銀行などの十数軒の銀行を創設した。その後、また中国墾業銀行、中国企業銀行などの新型の商業銀行を創設し続いた。

寧波の金融者を主体とした上海の銀行家の中には、一時に「江蘇?浙江財団」と誉められる。寧波出身の識者が創設した金融業は、上海で活躍した寧波人の商工業者の発展に計り知れない働きを与えた。広々とした上海市では、寧波出身の商人は、当時の中国の経済発展の重要な力になった。中国での最初の日用化学製品工場、最初の機械染織企業を、最初の電球工場、一番最初の民営計器工場、それに一番最初の保険会社、不動産会社、証券取引所まで、すべて寧波出身の商人の手で誕生させた。伝統的な業界でしっかり立っている寧波の商人は更に多くの新興産業に目を投げ始めた。

寧波出身の商人の黄楚九は、一番最初は漢方薬の業界からやり始めた。それからまた西洋医学の薬業に介入した。ところが、彼が一気に名を挙げたのは「エイロ脳みそ補給液」を発明したおかげである。

黄楚九は薬業で成功した後、娯楽の市場へ転じた。1912 年、黄楚九は「新新舞台」を創設してから、翌年、また舞台の最高層で中国の最初の「屋上庭園」を開いた。その後、更に新世界の遊園地を開いて、何度もやり繰り返し、業内の達人になった。1917年、黄楚九は80万元を出資し、「大世界」という遊園地を作り上げ、一時に上海で大きく響いた。しかし黄楚九はそのままで止まることではなく、1924年、さらに中華の映画会社を創建し、「大上海」で各業界にまたがる商業界の天才と認められた。

20世紀の初め、「映画」が舶来品として中国に入って来た時、数多くの人はこのような「西洋の鏡」から持ってきた、非常に不思議な魅力に驚嘆するだけであるが、頭が切れる寧波の商人は真っ先にその中のビジネスチャンスに気がついた。黄楚九が映画事業を発展する前に、寧波の商人はもう中国で自主的に映画を制作する最初の映画会社~幻仙映画会社を創設し、中国の第一部フィクション「難夫難妻」を撮影し、監督した。その後、寧波籍の初期の映画業界の人たちは、中国の映画の歴史に入られた。彼らの中で中国の映画業界で初期の開拓者張石川および天一映画会社と邵氏の兄弟映画製作会社の邵酔翁、邵邨人、邵仁枚、邵逸夫などの有名な人物をも含められた。

1933年、20数歳の董浩雲は当時寧波に管轄された舟山列島の定海から上海へ出た。何度も挫折を経て、何度も奮闘を経て、ついに中国一の「世界船王」になった。董浩雲も包玉剛も国際水上運輸界において、注目される寵児になった。

現代の「寧波邦」が郷里に持たせた貢献は商業界だけではない。各業界で活躍している寧波籍のエリートは郷里の科学教育、衛生、文化などの方面に貢献した。その業績も旧世代「寧波邦」が匹敵できないほど大きい。

科学教育界において、中国科学院と中国工程学院の会員の中に、寧波出身の会員は80名近くいて、その数はどちらも我が国の各都市ではナンバーワンとなり、その中には有名な大人物もかなりいる。例えば、「中国クローンの父親」とする童第周、中国生物物理学の創立者と開拓者の貝時璋、中国遺伝学の創始者の談家楨、中国で最初の地質学博士翁文灝、コンピュータ専門家の倪光南、熱エネルギーのタービンエンジンを専攻する上海交通大学元学長の翁史烈、大慶油田の発見者の一人で地球物理学学者の翁文波、国際で指の再接合技術を創立した医学者の陳中偉、世界名門校のノッティンガム大学(寧波)の学長を担当している核物理学者の楊福家、流体伝動と制御専門家の中国科学院院長の路甬祥、中国化学繊維の創立者で化学繊維の専門家の郁銘芳、中国石炭工業総合科学化の開拓者の湯徳全、中国航空材料研究の創始者の一人の顔鳴皐、国家最高レベルのプロジェクト「大規模な科学と工程計算」の首席科学者の石鐘慈、軍事医科院院長で中国血液学会主任の医学者の呉福沢、中国工程物理研究院院長で原子核物理学と核兵器工事専門家の胡思得、中国最高水準の「銀河」シリーズ大型のコンピュータの総デザイナーの周興銘、通信技術と管理の専門家で中国工程院副院長の朱高峰、中国科学院遺伝子研究センターの主任で生物化学者の洪国藩、中国ミリメートル波の技術研究領域の開拓者でミリメートル波の国家重点実験室主任の孫忠良、中国無機非金属材料専門家の張孝文、国家「攀登B計画」の首席専門家の動力機械工程の倪維斗など。彼らは相次いで郷里の経済発展のために知恵を入れ、人材を推薦、導入して、大量の技術、情報と資金を持ってきた。今日寧波に定住している科学技術園区、保税区、経済開発区、杭州湾新区などのいくつかのハイテク産業には、全部中国科学院、中国工程院、兵科院など現代「寧波邦」の印が刻まれている。

甬商の都

漢方薬の業界において、「三渓」という言い方があり、つまり浙江省の慈渓、蘭渓と安徽省の績渓である。

全国で有名な慈城薬業は、その悠久な歴史と十分な実力においては、当時の中国では適うものはない。北宋時代、慈城の五馬橋にいる豪族の馮氏は薬業を経営して、金持ちになり、嘗て「万金ほどの薬業」と名臣の舒亶の著した『四明雑咏』に褒められた。その後、馮氏は代々薬業を経営し、生計を立てて、明清の際まで、盛観を呈していた。清の道光と咸豊の年間、家の財産はもう2000万両の白銀に達し、全国でナンバーワンの金持ちに数えられた。このため、清政府の要請に応じて、30 万両の白銀を寄付した。その代わり、清政府は薬の販売を免税するという特権を褒賞として与えた。当時、馮氏の勢力は江南の至る所まで及んでいた。三百年の間、慈城では数十名の中国医薬業の豪商が生まれ、その時の中国薬業界ではかなりの地位を持っていた。たとえば、清代の薬王同仁堂の創建者の楽氏一族は慈城の出身である。明の永楽年間、薬を肩に担いで、慈城から北京まで運ぶ漢方医楽良才及びその子孫がずっと北京で薬業を営んでいた。清の康煕の年間で、ついに中国の第一漢方薬店になった。それ以外、上海の馮存仁堂、童涵春堂、天津の達仁堂、広州の敬修堂、済南の宏済堂、瀋陽の継仁堂、杭州の張同泰堂などの数十軒の輝かしい名声がある百年の老舗および寧波の最も有名な2軒の漢方薬店、馮存仁堂と寿全斎寿薬屋は、すべて慈城出身の商人が創設し、経営していた。江南の薬王と誉められた杭州の胡慶余堂は、最初のマネージャーと民国年間のマネージャーおよび今のトップ指導者の馮根生は皆慈城の出身である。薬業は明?清の時代に、慈城の商人の主な事業である。慈城ではほとんどの豪族は皆薬業の商売に従事して、そのために慈城は明清時代の中国医薬業の本拠地になった。

重官軽商の時代にも「良相にならなければ、良医になる、良医にならなければ良商になる」という観念があった。当時の慈城は文明の程度が高く、「農家に子がいれば、みんな本を読む」、人々の文化レベルはあまねくわりに高くて、薬業の経営はちょうどこのような高い文化の基礎が必要である。文化発展のおかげで、慈城では薬業の経営者と従業員は文化が高かったおかげ、広範な大衆基礎とマンパワーを持っていた。宋の時代から、慈城の馮氏一族、五馬橋の支系はみんな薬業の経営を始めて、金持ちになって、千年経っても衰えない。薬業の手厚い返しと利潤が多いために、数多くの田舎の人は薬業をあこがれて、たくさんの一族はみんな家族の全力を集め、薬業を経営することになった。例えば、董家、陳家、繆家、葉家は薬業の発展が順調に進んでいた。孝行と義理を以って、有名になった慈城人は、その特有な穏やかさ、温厚と誠実な態度が社会に広く認められた。そこで明の時代から清の時代、民国に延びて、慈城の薬業の事業は益々発展してきた。ついに山西平遥票号、安徽徽州の塩商と並び、中国の三大地方のもっぱら商売派閥に形成された。

1900年の5、6月、戦争のせいで、20軒の貨幣製作工場が壊された。金融業もかなりの影響を受けた。その時北京で最も有名な「首都四恒」(恒興、恒利、恒和、恒源)と呼ばれる四軒の私営金融機関は、すべて慈城の商人に経営されていた。そして、その時の社会状態が不安定の中、損失を受けないように、四軒の金融機関は同時に店をたたむのを宣言して、京城市場に大混乱を持たせた。そのために、慈禧西太后は緊急に大臣を引見して、「四恒は京師の金融機関で、一日でも扉を閉めることができろうか」と叱った。清の順天府に「近日中に解決しろ」という命令を出し、資金が不足であるとしたら、皇室と政府からそれぞれ50万両の白銀を出して、使いに供えろと指示した。ここから四恒はどのような影響を持っているのかははっきり分かってきた。考証によると、恒興の理事長は後施家巷銭蔭堂で、恒利の理事長は慈城県前陳の陳畏三である。これらの金融業には、すべて馮氏、兪氏、王氏、魏氏、董氏、孫氏などの一族から、資本を投入した。彼らは京城での影響力と名望は慈城の人に、特に彼らの家族にかなりの誇りを感じさせた。そこで彼らの後代は、今も先祖の「赴任十万」(新しく赴任する知府に、十万貸す)、「皇粮造屋」(皇族から儲かったお金で、祠堂や豪邸を建てる)の話を伝え合い、称賛している。清の後期に上海と北京の私営金融機関の指導者は洪念祖で、南市の私営金融機関の指導者は馮蓮汀で、二人とも慈城の出身であった。その時上海の金融業の指導者はすべて慈渓の出身である。

それ以外に特別に言わなければならない人は三北に生まれた慈渓の商人の呉錦堂である。彼は、陳嘉庚、聶雲台とともに、中国の「学校設立の華僑の三賢」と呼ばれた。この点から見ると、慈渓人の寛大な心と創業の激情を十分に体現している。

1926 年の正月、日本に居留する中国商人の呉錦堂は臨終の際、二人の息子に遺言状を口授した。一、故郷に葬る。二、中日の間は万が一仲が悪かったら、汝たちはくれぐれも祖国に危害を及ぼすことは絶対にしてはいけない。日本に居留して、故郷のことを思い、抱いた豪商の華僑呉錦堂は、自分の行動を以って、深く感動させる人生のストーリを演繹していた。彼は千元の資金をもって、日本へ渡り、商業を営んで、数十年にわたり、奮闘して、ついに有名な商人になった。1900年と1902年、3万両の白銀を二回寄付して、被災者を救済し、自分の住宅を孫文に譲って革命活動の基地とし、38000元寄付して郷里の被災者を救済し、慈北の杜湖、白湖を浚渫し、数十万元を出資して、呉錦堂学校を始めた。学生を選抜して、日本へ留学させる。この祖国を深く愛している老人の呉錦堂のお骨が故郷に帰った時、慈北の地区は沸き立って、人々は四方八方から急いで来て、彼のことを「万家の仏」と呼んで、湖辺の崇寿宮の前に彼の銅像を供えた。そして民間で、「中国に生まれ、中国に育ち、中国から東洋へ放浪して、東洋から白洋に帰って来て、白洋埠頭にお墓あり、道士宮の前に銅像を立てる。」という質素なことわざで、郷人の恩返しの気持ちを表した。

呉錦堂と並び、「慈渓の学校を設立?運営する二賢」と称される秦潤卿は民国の時期に、上海の金融巨頭、銀行の指導者で、長期にわたり上海の金融業において、かなりの地位を持っていた。彼が創設した普迪学校は郷里に大量の人材を育成して、有名な左聯烈士の柔石もかつてこの学校で教員を務めて、そしてこの経験を材料として、後世まで残る名作『二月』を著作した。孫衡甫は上海の四明銀行の理事長で、上海の金融界の風雲児である。周仰山は蘇州や寧波などのところで電力会社などの企業を創設して、そしてその後の「寧波グループ」の中堅人物になった「企業王」の劉鴻生に協力した。そして今も数多くの慈城出身の商人は香港、台湾、海外で創業して、現代の「寧波邦」の中の極めて優秀なものになった。例えば、慈湖高校、中城小学校、倡祺幼稚園を寄付して作った応倡祺および彼の家族はその代表の一つである。

「科挙の名城、慈孝の故郷」という名誉を持っている千年も古い慈城は、重厚な文化伝統と明るい人間性の輝きを持っているのみならず、その上、手強い精神と企業の知恵をも持っている。まさにこの二種類の文化衝突、交流と融合は、やっと数千年文明の伝承をもつ「寧波邦」の代表古都を新千年の曙光の中でゆっくりと現せて、久しく埋没されたが、一層きらきらと輝いている文明の真珠となる。

「寧波邦」は中国の政治、経済、文化芸術などの方面において、このような著しい地位を占めることができて、また精鋭グループの形式をもって、その魅力と業績を展示するのが確かに今まできわめて珍しかった。もし河姆渡文化は寧波が中華文明の発祥地の1つであると証明するといえば、近現代の「寧波邦」はきっと中華民族の輝かしい文明的な優秀な継承者と創造者であるといっても過言ではない。

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    泰山易改,本性难易。一脚跌进异时空的裴妍,依旧不敢初衷。居要有花有田,过日子要有闲有钱。看她左手拿削刀,右手育新种,如何在异时空为自己挣出一片锦绣花田。
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